高橋てつじろう(たかはし てつじろう)
1939年3月25日、兵庫県尼崎生まれ
國學院高校卒
昭和39年からフリーライターへ 平成2年株式会社現代企画研究所・代表


長年の盟友宮本輝さんとのおつきあいは半世紀以上になりますか。
いや、わたしが輝さんを知るきっかけになったのは昔の話ですが、輝さんデビュー前のこと。
大阪に「わが仲間」という同人誌があって、師匠は池上義一さんだった。定期的に同人が作品を発表し、わたしもたしか1作掲載してもらった。
しかし、かたや輝さんは、いきなり「文学界」にデビュー作を掲載され、そのあと、「太宰賞」「芥川賞」を受賞、いまや泣く子も黙る芥川賞選考委員ですから。


でも、初期のころは、高橋さんをライバル視していたのでしょう。
輝さんの真意はわからないが、同人誌の会合のあとに、たまたま駅で会うと、「お互いがんばろう」なんて、声をかけられた。そのころは、おれのほうが年上だろうが、と不遜なことを思っていた。まだ、文学的「差」は感じていなかったと思う。
あるとき、これは酔っ払いのたわごとと聞いてほしいが、宮本さん宅に電話した。
すると、「いま、何時やと思っているんや」と烈火の怒りよう。
時計は見たら、三時回っていた。そりゃ、怒るわな。


輝さんの師匠である池上義一さんは、輝さんを文学界に送り出したあと、「次はおまえだ」と、高橋さんを指名したそうですが。
そうなんですが。高ぶる気持ちにさせた時期もあった。しかし、それほど甘い世界ではない。
輝さんとの「差」は広がる一方だった。


高橋さんの中では、輝作品は、敬愛しうる作品群だったわけですね。
じつはそうではない。というより、輝さんには、「十八番」があって、それらは、はまれば、読者を引きつけ、感動を呼び込む。日記体で書かれていた「錦繍」は傑作だと思っています。
ただ、その十八番も二番、三番とつづくと、少し鼻につきますね。
輝さんの作品は、安全ドライバーの作品なのです。


それはどういう意味でしょう
かれは、無理をしない、堅実にまとめ上げることに執念を燃やすタイプだったのです。


高橋さんとは、違うと。
おれは、ただの飲み助。
しかも、しっちゃかめっちゃで、小説もその日の気分とひらめきで書く。取材し、準備して書くのがきらいやった。


謙遜を。若いときから書かれていたと聞きますが。
「我が仲間」の時代は、35、6歳の頃。まだ、金沢にいたころです。
最初は大阪。19歳で小説らしいものを書き、満足できず、その場でその作品は廃棄。以後、10年書かなかった。


もったいない。
ぼくはたぶん、小説をなめていたと思います。
10年後、金沢での仕事(主にライターの仕事)が認められ、そのとき、「おれにも書けるかも」と思い直し、そのころの北陸新聞社の文学賞に応募した。そうしたら、最終選考6作に残った。
すんなり受賞といかないのが、わが人生。挫折の連続でした。


文学的影響としては、「我が仲間」の時代ではなく、別の所。
ぼくは、かっこよくいえば、「孤高の人」なので、文学仲間のつきあいはなかった。
ある意味、輝さんとも共通している。デビュー後の輝さんも、文学的つきあいで、親しくしている作家の名前はでてこなかった。でも、受賞パーティでは、中上健次と、日本の文壇引っ張るぞ、と気勢をあげた。



生涯で、影響の受けた作家を三人あげるとすると?
輝さんがそこに入っていないのだから。
高橋 開高健、太宰治、大江健三郎。


えっ、先のおふたりは、なんとなくわかりますが、大江先生ですか。
ただのちゃめっけですよ。開高さんは、あの無頼な、そして飲み助なところが好きでした。無頼つながりで、太宰にも共感できましたね。


途中をはしょりますが、高橋さんの提言で、「翰林の会」が立ち上がった。
これは。
おれも歳をとったし、このさき、できることはかぎられている。
で、なにができるかと考えたとき、二つのことが頭に浮かんだ。
たいした経験もないが、おれのもてるものを若い人に伝授していきたい。できることなら、スターの作家になってほしい。そのためならば、いかなる支援もしたい。
2番目が、限られた時間ではあるが、おれにもいくつか自慢の作がある。数えてみたら、3作はある。これを完成させて、高橋てつじろうの代表作としたい。


わかりました。出版社の親父である富樫はこれからも、高橋さんを支援、応援します。 (2017年3月10日収録)