宇田川森和(うたがわもりかず)
1948年、山形県酒田市生まれ。関西大学法学部卒業。
社会科教師の資格取得。
昭和40年、酒田から大阪に移住。多くの文学仲間に恵まれた。
40歳で起業、出版社をスタートさせた。

主な著書「夢であいましょう」「はいばらの空 ケルンの空」「北の大地に生きる」(片山通夫氏と共著) 電子書籍「ビィーナスの涙」「炎の十字架」「華の乱 小説通天閣」「天神橋筋6丁目界隈」ほか。
「翰林の会」事務局


最初に自己紹介をお願いします。
よくよく考えてみたら、この世界にどっぶりつかって、半世紀。
途中、やめようと思わなかったのが不思議です。


文学とのかかわりの最初のきっかけは。
はっきりしないのですが、たぶん、郷里酒田で、叔父貴と同居していたとき、「創作」とか、「読書」とか「絵を描く」とかの、環境に浸っていたと思います。
小学生の低学年でしたね。


きっかけはそれとして、本腰をいれて始めた創作は。
大阪に落ち着いて、大学での「文芸部」所属と、友人たちとの同人誌結成でしょうか。
最初は、小説ではなく、現代詩のほうに、大切な友人・先輩がいました。
同人としての仲間は、先輩になるが、日岡悦子さん、清水正一さん、そのあと、すぐに釜ケ崎を根城としていた東淵修さんとの出会い。すぐに、「銀河詩手帖」の同人にしてもらいました。
もうひとりのの奇縁は、ビート詩人として名を知られた支路遺耕治さんでした。


やがてサラリーマン生活から脱サラするのが、40歳の頃。
ええ、そのころ、文学への傾倒も高まるし、周りでは、宮本輝さんの芥川賞受賞の話題で、大いに刺激されていたが、具体的行動が見えなかった。


宮本さんのように、文芸雑誌に応募していたのでしょう。
「文学界」「群像」「海」「新潮」等、あらゆるものに応募していた。
で、二次予選ぐらいまでは行くが、その先が遠い。
安定的な実力はあっても、それを越える爆発的パワーがないと、宮本さんのようにはなれない。


そこで諦めてしまったのでしょうか。
普通はそうでしょうね。しかし、わたしはあきらめの悪い男であった。


サラリーマン生活をやめて、会社を興す。一種の賭けでしたか。
そのとき、家族が反対しなかったことと、可能性は、1%でもあれば、ネバーギブアップだと思い、数年後、本格的な出版社をスタートさせた。


出版社の編集長として、さまざまの流通図書を手がけた。はっきりいって、ベストセラーを出せましたか。
最初は、そう思っていました。しかし、それがかぎりなく奇跡に近いことだと思ったのは、五年ぐらいしてから。
そして、「本が売れない時代」に突入し、どんどん、同業者たちがやめていくのを横目にしがみついていた。


そうして、30年。
流通図書の数は増え、一部の書籍は図書選定とか、文学賞をいただくことができた。
が、ここ数年で、あることに気づいた。これまでは、他人様の原稿を読み、本にするためのクオリティーを求めて苦戦してきた。すべて他人のため。
このままでよいかと思ったとたん、そろそろ「自分のために時間を使おう」と思い出した。少し遅すぎるかもしれませんが、出版社を経営するというのは、並の努力ではだめで、いつも命がけ。だから、自分のための時間なんて、考えもしなかった。 でも、年齢とともに、自分のためという強い願望が生まれ、二足のわらじのつもりで、再スタートを切ったしだいです。